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​複雑な国際情勢をコンパクトにまとめることが出来ないか考えて、私はこのブログを書き始めました。今、世界で何が起きているか、一早く読者の皆さんと情報をシェアしていきたい。その思いから、記事を書くことにしたのです。

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執筆者の写真Masaki Ogawa

映画「太陽を盗んだ男」|孤独で空虚な男が紡ぎだす原子爆弾の白昼夢



何の予告もなく、映画「太陽を盗んだ男」は衝撃的なシーンから始まります。冒頭から、閃光とともに原子爆弾が炸裂する情景が映し出されます。立ち昇る紅のキノコ雲。日輪が赫灼と昇り、そして一人の男が双眼鏡を手に匍匐(ほふく)して、東海村原子力発電所を凝視しています。男は原発からプルトニウム239を盗み出そうとしていたのです。この男の目的は一体何であるのか、誰にも定かでないまま映画は始まります。70年代の日本では、語られることさえ禁忌とされていた要素が随所に散りばめられ、類を見ないテーマを持った映画のストーリーが進行していきます。孤独で空虚な一人の男は一体何を為そうとしているのか?今回の記事では、映画「太陽を盗んだ男」の物語の展開と歩調を合わせつつ、一体この映画が何を語ろうとしているのか見定めていきたいと思います。一人の男の無為な日常の中に隠れた原子爆弾への憧憬と人生の蹉跌。誰にも答えられない永遠の問いに対して一人の男の日常が絡み、映画は淡々と進行していきます。本記事の起稿に際し、映画「太陽を盗んだ男」のDVDを同時並行で鑑賞しつつ、筆を進めてみます。


映画「太陽を盗んだ男」の予告編


映画「太陽を盗んだ男」の予告編動画をYoutubeで探してみました。私も初見の際は単なるエンターテイメント作品にしか見ていませんでしたが、少し洞察を加えると、映画「太陽を盗んだ男」は全く異なる様相を呈してきます。”天皇”や”原爆”といった重要な要素を織り込みながら、70年代後半の日本人が直面していたナショナリズムの喪失感を敢えて正面から描いた作品に仕上がっています。国家の意思によらず、個人が原子爆弾を製造するのがあらすじですが、舞台が被爆国の日本であるのが重要なポイントなのです。冒頭で原爆が炸裂するのは戦中の郷愁を誘うためではありません。日本人にとって、最も衝撃的であるべき光景を、敢えて喚起しているのです。物語に通底するのは、主人公の城戸誠が創りだそうとする恐怖なのです。主人公自身も群衆も、誰一人としてその恐怖に無自覚なままストーリーが進行します。被爆の記憶が歴史の彼方に置き去りにされて、誰一人として原爆の恐怖を理解していません。忌まわしい戦争への憤りと悲しみを唯一知っている老人が一人だけ登場しますが、映画の冒頭で射殺されてしまいます。山下警部を除いては、平和の美名に酔い痴れた日本人が、城戸の行為に誰一人立ち向かおうとせず、原子爆弾を身勝手な理由で使いたがることが見て取れるのです。 




映画「太陽を盗んだ男」のメインテーマ


この映画の原作者は日本人ではありません。鋭敏な感性で日本社会を眺めていたR・シュレーダーの手によるものです。主人公の城戸誠は、原爆を製造して国家を脅迫し、ラストでは抜け殻のように夕暮れの東京の街を彷徨います。原作者のシュレーダーは、映画を通じてシビアな視点で日本社会の暗部を活写しています。この映画を個人が原爆を創り出し”加害者のサイドに立つ”と見るだけでは不十分で、戦後の日本が抱えてきたジレンマと日本人そのものの変化を見出さなければ嘘になります。シュレーダーは日本人の中からは絶対に出て来ない視点から、この映画の原案を提出しています。天皇に暴力的な方法で戦争の謝罪を求める老人や、国家のために殉職した気骨漢の刑事の山下、そして主人公自身が国家級のタブーを犯すなど、常に個人と国の在り方を問い続けているのです。


一個の日本人として、各々が国家や歴史にどう向き合っているかがこの映画のメインテーマです。


被爆国であったにもかかわらず、日本人は原爆の記憶を喪失しつつあります。そんな最中、突然一人の男が原爆の製造に着手したらどうなるでしょうか。それがこの映画が我々に問うている部分です。城戸の周囲には、”国より個人”を選ぶ群衆心理が常に漂っていて、老人や山下警部など、重要な劇中人物が精彩を放つように描かれています。城戸自身は国家に無関心な個人であったに過ぎませんが、原爆を作り出したことで初めて国家と向き合わざるを得なくなり、”国より個人”の側にシフトしていきます。原爆を作り出した城戸が特別な”個人”ではないことも、映画の非常に重要な要素の一つです。つまり城戸は群衆の中から現れて、群衆の中に消えていっただけの存在に過ぎません。


それが端的に現れているのが、原爆保有国は8つあると云い、原爆を作り出した自分の呼称を”9番”と名乗っている城戸誠の台詞です。私には、あたかも囚人の番号のような名乗り方に思えてなりません。国家のためと称して、原子爆弾を製造した人間を糾弾するかのような響きです。いずれにせよ城戸は城戸と名乗らず、顔のない”国家の仮面”を着けた”個人”として登場します。


城戸には国家に対する叛逆的な精神が希薄で、純粋に原爆を創り出す愉悦に浸っているかのようにも見えますが、稚拙で凡庸な動機の裏には、国との関わり方において両極端な老人と山下の生き方が隠れています。何故なら城戸は老人と山下の写真を壁に貼って、原爆を製造しているからです。城戸には、国との関わり方が分からないジレンマがありますが、これは70年代の日本人が等しく浸っていた空虚感にも似ています。無意識であれ、その呪縛から逃れるために城戸は原爆を製造したのです。


しかしながら原爆を作り出した城戸の日常は何も変化がなく、退屈な仕事に明け暮れる毎日が待っていました。映画の一連の流れは、城戸が日本人特有のジレンマと空虚感から逃れるための”足掻き”でもあったのです。


主人公の城戸が孤独で空虚な日常的なジレンマから国に挑戦を挑んだのは確かですが、果たして城戸の行為は戦後社会の中でどう位置付けられるのか次節で見ていきます。


戦後の日本社会の絶対的な禁忌を破った男


城戸は着々と原子爆弾製造の準備を始めるのですが、彼の心を決定的に動かしたのはバスジャック事件でした。生徒達と修学旅行に出かけたバスが、帰路に一人の武装した老人に占拠されるのです。戦時中に命を落とした息子に謝罪して欲しいと天皇陛下に要求するためでした。皇居前に陣取った老人は、天皇への謁見を求めますが、警官に射殺されます。そこで城戸は山下警部との運命的な出会いを果たします。山下と城戸は最後まで”原爆”を巡って死闘を演じます。山下一人が”国家の為に殉職する”ことが、皇居前で繰り広げられる老人との銃撃戦で暗示されているのです。


”天皇の謝罪”を求める老人の存在は、この国が戦後復興を遂げて顔付きをいかに変えようとも、消えることのない遺恨として戦争が歴史に刻まれていることを示しています。ある意味老人は、戦中戦後の絶対的なタブーを破った”現実感のある存在”として、空虚な城戸の精神の覚醒を導いたと言えるでしょう。


東海村原子力発電所に向けて城戸は車を駆ります。


首尾よく放射性物質を盗みだした城戸は原爆の製造に着手します。自室のラボで液体プルトニウム239をビーカーに注ぐ城戸。放射線測定器の計針が大きく触れる瞬間でした。析出と濾過を済ませた城戸は、溶融炉で金属プルトニウムを製造することに成功します。原子爆弾を作り出したのです。


城戸の行為は、戦後封印されてきた日本の暗面を深く抉っています。日本人は戦後、非核三原則で原子爆弾を製造することを禁じました。一方で核抑止力で安全保障を保ってきた側面があります。城戸は日本の戦後の絶対的な国是を破ったわけです。


諸国が保持する核兵器も”使えない兵器”であるように、城戸も原爆を持ってはいても使い方が分からないのです。


タブーを破った城戸は、次にある女性に近づきます。


本稿の最後に”3度目の原子爆弾”と称して見出しを立て、城戸や山下達が最後はどうなるかを見ていきたいと思います。


本当に3度目の原子爆弾は炸裂するのか


ラジオパーソナリティの女性に仮託して、原爆の使い方を模索する城戸。もし原爆を持っていたら、どんな夢を叶えるか?城戸はラジオのリスナーに問いかけるのです。終戦の直接的な理由が原爆だったことは、もはや誰も鑑みず、”3度目”であるべき原爆の意味はそこには皆無でした。好き勝手に夢を語るリスナー達。原爆がかつて日本国家を屈服させた歴史の教訓は死滅しており、城戸の”害毒”は電波を通じて拡散していくのです。”ローリング・ストーンズの来日”を望む声は、原爆を投下した米国に対するカタルシス的な要求を暗示してもいます。


私事ですが、記事を書く若い仲間が”真珠湾攻撃”のことを知らないと告白していました。皮肉なことに、劇中では主人公の城戸は中学の教員であり、次世代に歴史を引き継いでいく責任のある人間だったのです。白昼夢に耽る城戸は、我を忘れて授業中に”原子爆弾の製造法”を子供達に語って聞かせますが、幸いなことに子供達は誰一人城戸の言葉に耳を貸しませんでした。城戸の心には”過去”も”未来”も”現在”も存在していません。無為で懶惰な70年代のシンボルが城戸だったのでしょう。経済成長を成し遂げ、奇跡的な戦後復興を実現した日本社会には、個人や国家にとっても、もはや何も為すべきことがないことは、作家の三島の滑稽な割腹にも見てとることが出来ます。警察に奪われた原爆を奪還すべく、城戸は表向きは死闘しますが、巻き添えを喰らったラジオパーソナリティの女性は命を落とします。城戸にはラジオパーソナリティの女性のように命を賭けるほどの”夢”も無かったのです。命を賭してまで何かを守ろうとした戦中社会の精神は死に絶え、”何か”に去勢された圧倒的な群衆の前に、三島は絶望していたのかも知れません。他国の核武装によって辛うじて保たれていた冷戦時代であるにもかかわらず、日本社会は弛緩しきっていたことが、映画「太陽を盗んだ男」からも感じ取れます。最終的に城戸は、滑稽な割腹自殺をした三島のように、国家も個人もどうでもよい境地に堕ちていきます。警察に追われて逃げ込んだデパートのトイレで城戸は自殺を試みますが、原爆製造の際の被爆によって、死ぬことすら出来ないほど精神も肉体も朽ちて果ててしまっていたのでした。日の丸を背負った山下警部は城戸に射殺されますが、死の直前に鋭い警句を城戸に向かって吐いています。「お前に人を殺す権利はない。お前が殺していいのはお前自身だけだ。俺にはお前が死にたがっているように映る」城戸が仕掛けた原爆の時限装置を解除すべく、命を賭けた山下警部だけが、以下のことを理解していたのかも知れません。城戸が国家との交渉の窓口に山下警部を選んだのは理由があったのです。


”3度目の被爆”はあってはならない。


今日的な視界で言えば、山下の警句は人間が核利用することへの警鐘でもあるでしょう。命を賭して、山下は以上の言葉を日本人に残していきました。老人の死は城戸に行動を促し、山下の死は城戸に目標を失わせます。死を賭してでも守るべきものが無い城戸は、呆然とする以外に術が無かったのです。”孤独で空虚な男が紡ぎだす原子爆弾の白昼夢”と題した本稿は、以上で締め括ります。


この記事のまとめ


映画の冒頭で立ち昇るキノコ雲の意味するものは、誰にも定かではありません。ラストシーンでは、何事にも無関心かつ、ただ無為に歩き続ける群衆の中を、主人公の城戸誠は原爆を抱えながら彷徨います。城戸の毛髪がごっそりと抜け落ちるシーンが出て来ますが、理由もなく禁忌を弄んだ城戸に待っているのは、被爆の後遺症による死の制裁だったのでしょう。二度と原爆は作ってはならないし、当然使ってもならない。この映画の核心的なテーマを示唆しつつ、「太陽を盗んだ男」は幕を閉じます。70年代には”戦中派”はまだ健在でしたが、物言わぬ群衆と化した日本人の頽落ぶりを映画は暗示しています。被爆国である日本と、被爆者である日本人が沈黙してしまったら、一体どうなるのか?映画は鋭い問いを我々に突き付けています。映画「太陽を盗んだ男」の随所に挿入する日の丸の映像は、原作者シュナイダーによる、日本と日本人への”メッセージ”に相違ありません。映画の原題の”太陽”の意味するもの、それは”日本”と”原子爆弾”のイメージを掛け合わせたものである以上、シュナイダーの問いかけは、城戸以外の私たち日本人全体にとっても、国家や個人、そして歴史を振り返る際に有益な着眼点を提供してくれます。

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