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LONESOMECAT

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​複雑な国際情勢をコンパクトにまとめることが出来ないか考えて、私はこのブログを書き始めました。今、世界で何が起きているか、一早く読者の皆さんと情報をシェアしていきたい。その思いから、記事を書くことにしたのです。

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執筆者の写真Masaki Ogawa

崩壊する太陽


書き降ろしです。先だって書いた原爆の話です。少々長いですが、全文を掲載します。被爆者の、死への苦悩を描いたものです。以下、全文です。今日は8月9日。                     


  崩壊する太陽                   小川正樹

 あの夏の日、目が眩むほどの巨大な閃光と、凄まじい爆風が街を襲った。私が一命を取り留めたのは、遮蔽物の蔭に居たからである。さもなくば、凄まじい熱線が、私の五臓や四肢の全てを融かしていた筈である。俄かに空がどす黒く曇り、墨汁のような液体が頭上から降ってきた。ぼたりと落ちた黒い液体は、どろっと私の首筋を掠めて足元に落ちた。続けざまに液体は降って来たが、恰も、地を叩くほどの勢いで降り頻っていた。辺り一面は瓦礫や溶けたガラスの破片が散乱し、街は失われていた。人が燃え狂っていたが、焼け焦げたその姿は、誰とも見分けがつかなかった。もしかしたら大きな犬だったのかも知れない。はっきりと、人らしき形が見えるようになるのは、爆心から随分歩いた後のことであった。耳をつんざく轟音の後、私は巨大な地響きを感じながら、匍匐して逃げ惑い、惨めに失禁していた。

 路傍には、焼けて腹部が膨れ上がった、異様な遺体が沢山転がっていた。爛れ落ちた皮膚や内臓が舗装路に黒い血溜りを作っている。焦げた肉塊が、水蒸気を出しながら、内部から溶けているかのようだった。焼け焦げて四肢が無い子供や、眼球の飛び出た頭部、火が燻って異様な臭気を発する老人、男、そして女がいた。


 異様な地獄絵図が、延々と続くかのようであった。飛散した肉片や蒸発する体液の臭気で、私は眩暈を惹き起こしそうだった。あまりの酷さに、私は嘔吐した。私は屍の中を搔き分けて進んだ。


 私は泥と血の混じった川を泳いでいるかのようであった。道端にしゃがんで水を乞う人々が連なっていた。さらに進むと、累々と連なる人の群れが見えた。子供とも老人とも見分けがつかぬほど、顔が焼け爛れた誰かが、私のボロボロの袖を掴んでいた。私も喉の乾きが狂おしいほどになっていて、水が無いか探した。私は黒い水溜まりを見つけて啜り始める。私の手は、焼け爛れて水掻きのように指が繋がってしまっていた。柄杓のように手を丸めて、泥水を掬って飲んだが、苦く、そして吐き気を催すほどの悪臭がしていた。


 瓦礫の中から声が微かに漏れている。だが、誰も、どうすることも出来ない。立っていられる者は稀であった。私は膝を折って、地面に崩れ落ちた。その後は、私は這いつくばって進むしか無かった。肘を使い、膝を前後させて、まるで芋虫のように必死で前に進んだ。恐怖のあまり、私は気が触れかけていて、小さな悲鳴を何度も上げた。


 私はあまりの恐怖から気を失いかけていた。藻掻くように地を這い回り、嘔吐を繰り返しながら地獄から逃れようとした。誰が生きていて、誰が死んでいるのか定かで無かった。腰の辺りが重く、四肢に力が入らず、熱に焼けた地面を転げ回っていた。私は脱力して、もはや、これ以上前に進むことが出来なくなり、意識が遠くに跳ね飛ばされた。


 誰かが私の身体を抱き起そうと試みた。脇の下に誰かの力を感じたが、私を立たせるには至らず、力の主は断念したようだった。傍らに担架が見える。其処が病院の傍だと気付くのに、然程の時間は掛からなかった。


 1945年8月9日の出来事であった。


 私の街は瞬時に消え失せていた。私の愛する家族は、妻も子も、そして父母さえも、全てが焼き尽くされた。何もかもが蒸発してしまったのだった。


 米軍機によって、かつてない程の破壊が行われた。突然の閃光が、長崎の街を跡形もなく融かしていった。美しい街は、一瞬にして廃墟と化した。一個の爆弾によって、街は完全に消滅したのだった。


 私は、この巨大な惨事を引き起こした人間を、誰一人として許す気持ちは無い。


 私は目を覚ますと、徐ろに横に臥して辺りを見渡した。アルコールの臭気が漂っていて、其処が病室であるのに漸く気が付いた。


 饐えた臭気が緊密に充満した棟内には、午後の日差しが弱々しく浸透していた。人いきれを私は感じ、誰かが呻く声や嗚咽ですすり泣く声を、私はじっと聞いていた。隙間なく詰め込まれた人間の群れが、病院に参集して死を待っていた。病床が空くや否や、すぐさま別の人間が搬送されてきて、絶え間なく人が入れ替わった。多くは死んでいった。治療らしい治療は何一つ行われず、ただ死を待つしか救いの手立てがなかった。苦悶とともに絶命する人間が何人か居た。ここでは死だけが、ひとつの救いだった。物資は何も無く、消毒すらまともに行われなかった。ブドウ糖ひとつさえ、無い状況だった。死んだまま、数日放置される者も居た。人手が足りず、何事も行き届かなかった。


 狭隘な病室に人間が鮨詰めにされていた。寝返りを打つことも儘ならず、患者と患者の隙間は殆ど無かった。病院は収容力の限界を遥かに超える人間を受け入れざるを得なかった。次々と担ぎ込まれる焼け爛れた人間が、ぎっしりと押し合いながら順番を待っていた。


 人々に、何か非日常的な力が働いたのだった。人々は、もう終焉が近いことを感じ取っていた。そして延々と続く地獄の始まりを感じていた。人々は終始無言だったが、既に肌で、敗戦を知っていた。制空権を失ったことを、大本営は隠蔽し続けたが、その巨大な光が、空から降って来たのは明白だった。


 戦争の帰趨を巡って、日本全体が激しく緊張していた。広島でも同じことが起きていたことを、私は8月9日の時点では全く知らず、戦後にラヂオで知ったのだった。沖縄に50万を超える連合軍が攻撃を仕掛けたことも、東京に焼夷弾の雨が激しく降ったことも、私は後に知ったのだった。


 その巨大な閃光から6日後、日本の敗戦が決定した。


 私は天皇が、玉音放送を通じて、肉声で話すのを初めて聞いた。


 この日が来ることは、全ての日本人が予感していたことだった。疎開先から、東京に舞い戻って空襲で死のうとした家族さえいた。本土決戦を主張する一部の人間を除いて、敗戦は誰の目にも明白で、大日本帝国の崩壊は自明だった。


 人々が防空壕を掘っていたのも、いずれ空襲を受けることを知ってからである。当然、長崎でも、其処彼処で壕を掘っていた。いよいよ米軍が本土空爆を開始することは、人々には、もはや隠し通せるものではなかった。一億総玉砕の幻想に酔っていたのは、一部の狂人達だけであった。元々、この戦争には勝ち目がないことは、誰の目にも明らかだった。


 体中に、耐え難い苦痛を私は感じ、横になってラヂオを聴いていた。どの道、死んでいった者は帰らない。此処では絶えず、誰かが毎日のように亡くなる。戦争はまだ、続いていたのだった。私ははらわたが煮えくり返るような気持ちで、日本の敗戦を迎えた。


 敗戦の放送を聞いて、軍人の自死が続いたという。


 皇居前で土下座して敗戦の非を詫び、軍人が腹を切ったとラヂオが云っていた。殉死する

人間の気持ちが、私にはよく分かっていた。やり場のない屈辱感を、自ら死ぬことで、解決しようとしたのだろう。あるいは、この戦争で、大勢の人間を死なせたことへの、罪滅ぼしだったのかも知れない。だが戦争は終わってはいなかった。此処では日々、人が死に続けていた。死をもって償うべきは、一介の軍人ではない筈だった。


 容易に戦争は終わらなかった。外地には大勢の日本人が取り残されていた。俘虜になった人間、抑留された人間、そしてケロイドで焼け爛れて死を待つ人間が大勢いた。8月15日をもって、戦争が終わったとするのは、幻想に過ぎなかった。


 私の傍らで、また一人亡くなった。じっと動きを止めているから、死んだと私は分かった。手先を摘まんでも、冷たく、血が通ってないのが私にも分かった。


 亡くなった人間は、静かに運び出された。荼毘にふされる為である。殆どの死者が、無言のまま亡くなっていたのだった。亡くなる予兆は何も無く、多くは静かに息を引き取った。私は云い知れない哀しみを感じていた。生き抜かねばならない。私は強くそう思った。


 人々は何ら薬を与えられず、激甚な痛苦の中で生き、そして死んでいった。日々、向き合う過酷な現実を、人々は黙々と耐えていた。哀しいことだが、死は、ある種の解放だったかも知れない。今、この時間こそが、正に戦争だった。


 物資の補給は何も無かった。医薬品に限らず、食料もまともに調達出来なかったようである。私はひどく食欲を感じていたが、何も食べる物が無かった。生きるためには、食べねばならない。モク拾いで集めた吸い殻と、ポケットに入っていたマッチで一本に火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。私は何かに挑むような目付きで、ギラギラとした感情に苛まれていたのだった。


 両手のケロイドが酷く痛む。医師は上腕にゴムのチューブを巻いて血流を止め、手の感覚を麻痺させてメスで切開していく。私は耐え難い苦痛を感じたが、歯を食い縛って痛みに耐えた。包帯で巻かれた両掌は、完治するまで相当な時間が掛かると医師は云っていた。


 若い女性が、包帯で顔を覆っていた。生き残った人々であれ、必ず何処かに傷を負っていた。私は両手が不自由になったが、まだ自分は幸運だったと考えた。目も見えて、耳が聞こえ、話すことも歩くことも出来たからである。足の傷が治るまで、私は杖を必要としたが、病院には杖の代わりは何もなかった。


 歩行が可能になるまで、2週間かかった。この2週間の間に、私の周りでは、夥しい数の人間が死んでいった。私は不安と興奮のために、殆ど眠れなかった。この先の自分や国のことを考えて、私は神経が尖っていた。亡くなった家族や友人のことは、努めて考えまいとしたが、現実的には不可能だった。私は自分の両手のケロイドを思った。この何千倍もの痛みが、家族や友人を襲ったのかと思うと、やるせなかった。此処に集う人々を思うと、私は不安を覚え、此の非道な仕打ちに対する義憤から、異様な興奮を覚えた。憤りと哀しみのあまり、私は発狂してしまいそうだった。


 早くも、復員して来た男達が、病院で家族を探す姿に私は出くわした。祖国に帰って来た男達を待っていたのは、焼け野原と家族の遺髪や骨だけであった。悲嘆に暮れた男達は、目に哀しみの色をはっきりと湛えながら、医師や病院の職員に丁重に礼を言って帰って行った。


 久しぶりに外出の許可が出た。病院の傍の空き地を通ると、茣蓙を広げて、物を陳列する人々が、通りで一斉に軒を並べていた。軍靴と配給品の煙草を交換する男がいた。私が煙草を分けて欲しいと男に云うと、皇国の印の入った煙草を一本、男が寄越した。


 男は煙草を吹かしながら、一体何があったのだ、と私に訊いたが、ラヂオで聞いたのだが新型爆弾らしい、と短く答えた。夜になると、今でも泣き叫ぶ声が耳に聞こえる、と私が云うと、男は頻りと首を振って考え込んでしまった。女房や子供は駄目だろうと思う。そう言ったきり、男は無言になってしまった。家は何処だ、と訊くと、浦上天主堂の近くだ、と男が答えた。それから私は終始無言のまま、ゆっくりと煙草を吸っていた。


 翌朝、私は男と連れ立って、ゆっくりと、男の住処だった辺りに向かった。此処ら辺だ、と男が指さした土地には、瓦礫以外に何も無かった。男は瓦礫を掘り分け、何か残ってないか探していたが、焦げた石や、炭のようになった木材、溶けたガラスなどが散乱し、家族の痕跡は何も無く、全てが消え去っていた。爆心地に近い私の家は、更に悲惨だろう。


 男はさめざめと泣き始め、何処に行ったんだ、畜生め、と喚いた。


 天から雨が、ぽつぽつと降って来た。私も堪らず、男に貰い泣きしながら、その光景を見守っていた。男の頬を伝う涙が、煤で汚れた男の顔に、一本の筋をくっきりと描いていた。子供は、まだ3つになったばかりだ、と男は云った。胸ポケットから、皺の寄った古い一枚の写真を取り出し、男は、在りし日の家族の肖像を眺めていた。


 薄曇りだった空に、今でははっきりと、灰色の雨雲が広がっていた。雨はさらに激しさを増していった。男の形相が阿修羅のように険しくなった。憤怒と悲哀の入り混じった、凄まじい眼をして天を仰いでいた。男は、天から降り頻る雨を両の手を広げて受けていた。男を見つめていると、私の心にも漆黒の闇が広がっていった。雨脚は次第に勢いを増し、やがて雨は土砂降りに変わって、雷鳴の轟く中、私と男は、成す術もなく、立ち竦んでいた。


 男は佐倉と名乗った。瓦礫を後にして、病院に戻ると、自分は釜山から船で帰国したと云った。佐倉は薬の行商をやっていたと語り、私は女学校で幾何を教えていたと打ち明けた。これから、佐倉は、北海道の郷里に戻ると云う。自分には戻る場所は無い、と私は答えたが、佐倉は頷いて、一緒に北海道に来るか、と私に訊いた。田舎では畑をやっている。当分、食い物には困らない、と云い、私を気遣っていた。


 佐倉の申し出は、私の胸に深く染み入ってきた。哀しい思いで一杯の今の私を、別天地へと誘ってくれるようで、私は胸が焦がれたが、今の私には、動くだけの気力が無かった。好意を無下にしたくない気持ちと、遠慮する私の気持ちとが、心の中で、鬩ぎ合っていた。


 気持ちはとても嬉しい。だが、この身体では思うように動けない。迷惑をかけるだけになる。私は、そう云って、佐倉の厚意に感謝した。私は切開した手のケロイドのために、苦痛で毎夜、呻き声をあげていた。それに、辛うじて、短い距離を歩くのが精一杯の私には、北海道までの移動は、不可能に思われた。私は一言、動く自信がない、と言った。


 ここに居ても何もない。もう、何もかも消えた。築き上げた幸せは、鬼畜に破壊されてしまった。俺が連れて行ってやる。佐倉はそう云って、一緒に行こうと誘ってくれた。ありがとう、と私は云って、そのまま目を瞑ってしまった。


 翌朝、佐倉の姿は見当たらなかった。


 私は痛む手足を庇いながら、ゆっくりと体を起こし、静かに立ち上がった。病院では、相変わらず、人が亡くなる。私は、生き残った側の人間だった。


 被爆者は、亡くなるか引き上げるかして、病棟に、空きが少し目立つようになってきた。私も、そろそろ自分の家に引き上げないとならない。私は退院の許可をもらい、瓦礫となった自分の家に向かって、やっとの思いで歩いて行った。行き交う人の表情は不安気だった。道中には、何か妙な臭いが漂っていた。久しぶりの陽光は眩し過ぎて、私は目を傷めそうだった。其処には、残骸だらけの荒野が広がっていた。


 私は瓦礫の山に戻って、改めて惨状を見つめていた。我が家と呼ぶには、もう手遅れな気がしていた。辛うじて、浴室の名残が感じられる一角が残っていただけであった。上水道の配管が地中から突き出ていて、濁った水をひたひたと零していた。飴のようにひしゃげた真鍮の薬缶を拾ってきて、中の黒い水を捨てた。いびつだが、薬缶は使えそうに思えた。夜間は廃材で焚火をしながら過ごす。錆びた一斗缶に木をくべて燃やし、明かりと暖をとった。


 深夜は轟々と風が鳴った。風が土埃を舞い上げて、辺り一面には不気味な靄がかかり、視界が悪く、人影は皆無だった。点在する焚火が暗闇に明滅し、遠くで犬の吠える声が聞こえた。街は瓦礫と化して死に絶えており、深い暗闇に、夏の風は吸い込まれていった。


 私は夜半に目覚めた。包帯を巻いた手は、泥に薄汚れて黒くなり、何か月も着替えていない衣服はボロボロだった。私は焼けた手摺りを見つけた。半分ほど燃え残っていて、杖に出来ないかと考えた。焦げた部分を切り落とす方法が思いつかず、ブロックの隙間に差し込んで、梃子にして手摺りを半分に折った。五徳が無かったので、櫓上に木材を束ねて交差させ、木をくべて煮炊きを出来るようにした。深夜、一人で火を眺めながら、私は再び泣いた。


 天候の悪い夜は、雨に打たれて泣いていた。一晩中降る雨の中で、傘すら差さずに耐えていた。哀しみが消えず、自分が惨めで、為す術もなく震えて夜を明かした。寂しさでこころが一杯になり、大声で歌を唄った。何時まで野宿が続けられるか定かでなかった。無性に葡萄が食べたくなったりした。一瞬、妻の声が聞こえたような気がした。私は其の場から駆け出して、声のする辺りを見回したが、誰一人居なかった。


 2週間もすると、配給物資を積んだカーキ色のトラックに、人が列を作っていた。


 私は穀類より煙草を欲していた。列の一人に声をかけて、米と煙草を物々交換した。私は列を離れ、バラックにも似た自分の住処へ戻って行った。色の悪い薩摩芋を焚火の中に放り込み、暫く私は放心したように見詰めていた。焼き上がった薩摩芋は不味く、私は咽て嘔吐を繰り返していた。ひどく胸焼けがして、私は自分の胸板を拳骨で幾度か殴った。骨が折れそうなほど、繰り返し殴った後は、私は極度の疲労を覚えて座り込んだ。


 配給の列に並び、僅かな食糧や物資を手に入れて、食い繋ぐ生活が続いた。復興は遠い道程になるだろう。敗戦で国は混乱していて、頼りにすることは出来なかった。


 焚火の火が消えかけていた。燃やせそうな物は、もう何処にもなかった。せめて木炭かコークスの配給でもあれば別だが、燃料の配給は絶望的であった。不安で動悸が苦しくなった私は、廃材を求めて深夜に徘徊した。木材の破片を両脇に抱え、私は長い道程を毎夜歩いた。連日歩き通しで、古靴の先が綻び始めていた。リュックがあれば便利だが、中々手に入らないだろうと私は考えた。皆、食料、水、燃料が主に不足していた。かつて、曳光弾が夜空に鮮やかに走った夜を、私は思い出していた。


 身の回りの、多くの知己と連絡が取れなくなっていた。否、多くが死んでいったのだった。生き残った知人は、誰一人として居なかった。隣組の世話役だったお爺さんも見当たらなかった。恐らく、熱線と爆風で消えてしまったに違いない。恰も、あの暑い夏の日に、そこらじゅうで神隠しが起きたかのように、人があの世に攫われてしまったのだった。俄かに信じがたいことであったが、私は現実を受け入れざるを得なかった。


 私は住処で仰向けに横たわった。今夜は星が美しかった。


 夜空の星明かりだけが今の頼りだった。死に絶えた街と、死に絶えた時間だけが残った。全ての生命を攫った閃光は、此の闇夜と対照を成していた。


 再び、其の夜も眠れずに、私は夜通し考えていた。どう考えても、同じ血の通った人間の仕業とは思えなかった。病院で聞いたラヂオでは、新型の爆弾は「原子爆弾」と言っていた。乳飲み子や幼児、老人や非戦闘員まで、丸ごと消し去ってしまった爆弾に、私は途轍もない憤怒と、極限の哀しみを感じていた。いや、あの煌めく閃光が放たれた瞬間は、私はその恐ろしさに発狂寸前だった。大日本帝国は降伏した。もはや、何も見たくないし、考えたくもなかった。戦時中は鬼畜米英と連呼していたが、「鬼畜」という言葉では飽き足らなかった。原爆の投下は、正常な人間の物差しでは測れない、不可解な決断だった。


 私には人間の業の深さが思い遣られた。人は、其の歴史の中で、天使にも悪魔にも変わった。日本人が此の戦争で何を喪ったか、言うまでもなかった。それは国体ではなく、国民の誇りではなく、自らの生命そのものだった。


 全ての日本人が、国民精神総動員法の名の下に、欺かれていた。開戦時に、東条は此処まで悲惨な結果を想定したのだろうか。私の親しい知人の息子が、学徒動員で兵に徴用された。東条は云った。今や、諸君はペンを剣に代えて、と。プロパガンダ、嘘やデマゴーグ、そして軍部の独裁が招いた結果だった。いや、もういい。人間の業など、どうでも良かった。私は何も考えたくなかった。何処かの狂った人間の、異常な脳細胞の働き方について、詮索しても仕方が無かった。私は、自分が狂人なのか、為政者達が狂人なのか、もはや分からなくなっていた。今起きていることは、不条理か理不尽のいずれかだった。


 元々、暴力に正義など無かった。如何に粉飾しても、必ず正義のめっきが剥げ落ちる。巨大な暴力は巨大な悲劇を生む。戦争は不条理であり、そして理不尽であり、勝った者も負けた者も、共に傷付いて、無為に死んでいくだけだった。私は考え疲れて、いつしか眠ってしまった。


 私は早朝に、水の配給に出かけた。清潔な飲用水は貴重だったからだ。


 見覚えのある顔の男が、私に近づいて来た。佐倉だった。佐倉は背中に大きなリュックを背負って、此方に歩いて来た。私は佐倉のしっかりとした足取りに見惚れて、佇んでいた。闇市に行って来た、と佐倉は云い、大きなリュックを背中から下ろした。コーンビーフや鮭の缶詰、林檎や米、小さな酒瓶や煙草など、今の私には考えられない品物ばかりを、佐倉は持って来た。


 其の夜、私と佐倉は、コーンビーフを肴に盃を交わした。酔うにつれて、私も佐倉も平時を偲んでいた。佐倉は片足鳥居を見てきた、と言った。諫早まで、急いで歩いて来たと云い、元気そうじゃないか、と私に微笑んだ。まだ生きてるよ、と私は答え、一口酒を呷った。久しぶりの酒は、五臓に沁みた。私は天を見つめて、星に祈っていた。佐倉は、墓を立てたくてね、と云った。どうやって、女房や子供の弔いが出来るか、道中ずっと考えていたそうである。リュックから古びた石片を取り出し、女房が使ってた台所のタイルだと佐倉は呟いた。


 其れは薄い水色の、艶々としたタイルの破片だった。三角形に近い形をしていた。瓦礫から、やっとのことで、佐倉が拾い出したに違いなかった。タイルは、妻や家族との、大切な思い出だった。


 小さな石の破片が遺骨代わりだと、佐倉は目に涙を一杯溜めて呟いた。私は掛ける言葉が見当たらなかった。私は佐倉から石片を受け取り、月明かりに翳して眺めていた。


 「1945.8.9」と小さく削り取った文字が見える。佐倉は、釘を拾って彫ったと語った。私は、自分の住処の瓦礫から、小さな石片を拾い、佐倉に倣った。ポケットに石片を仕舞った佐倉は、軽く鼾をかき始めた。私は佐倉に外套を掛けてやり、自分も焚火の前で横になった。


 少しだけ酒に酔った私は、色々なことを思い出していた。妻と子供と行った夏祭り。縁日で金魚を掬い、風鈴を買って帰った。涼しげな音が響き、よく冷えた西瓜で涼をとった。妻の浴衣姿を思い出していた。涙が溢れた。私は泣き疲れ、そして何時の間にか眠りに落ちた。


 朝方、佐倉が買い出しに行くと云う。私に此処で待っているように、と呟いた。


 佐倉はリュックを軽々と背負って、足早に駅まで歩いて行った。私は、佐倉に真似て彫った、自分の石片の文字を眺めていた。妻子を弔いたい。小さな石には、私と家族が刻んだ、ささやかだが決して消えることのない、生活の痕跡が宿っている。私は再び涙が溢れそうになって、身体が小刻みに震えるのが分かった。嗚咽を堪え、私は肩で息をしていた。妻や子供に再会したいと、こころから私は願った。


 昨夜の残りのコーンビーフで食事を摂った私は、ゆっくりと通りを歩いていった。其処彼処に、石を積んだ墓が立っていた。諫早は爆風を免れたが、近しい家族や友人の弔いだろうと思った。


 夏の日差しは、じりじりと肌を焼いた。積まれた石の一つ一つに、私は思いを馳せた。私は、家族を弔う遺族の気持ちが痛いほど理解出来た。佐倉は妻子を此処で弔うと云っていた。此の瓦礫の中から、拾い集められるものと言えば、小石くらいだろう。仏花を手に入れたいと私は望んだが、今は不可能なことだった。


 佐倉の帰りを待ちながら、私は鮭の缶詰で昼食兼夜食を摂り、焚火にあたっていた。1キロ歩くと、私の足は引きつり、手のケロイドの痛みは、耐えがたいほど激しくなった。弔いが済んだら、佐倉は北海道に帰るつもりだろうか。死の街になった長崎を捨ててしまうのか。私には分からなかった。長崎に戻ったのは、何か深い理由があったのだろう。妻子を弔うまでは、佐倉は此処を離れないだろう。だが私は唐突に、此の街には危険があると、佐倉が云ったことを思い出した。佐倉は、「放射能」という言葉を使っていた。私の髪が抜け落ち始めたのも、丁度この頃からである。


 私は得体の知れない恐怖に駆られていた。まだ地獄は始まったばかりで、これから先、更に悲惨な出来事が自分を見舞う気がしていた。


 原子爆弾が、普通の火薬を用いた爆弾ではないことは、私にも想像がついていた。原理は分からないが、恐らく特殊な物質を用いた爆弾だと、私は分かっていた。米軍のミリタリーポリスのジープが、辺りを徘徊するのが目につくようになった。


 米軍は恐らく、爆撃後の調査をしている筈だった。新型爆弾の殺傷力に関する情報を、蒐集しているのだろう。私が通りを歩いていると、カメラを回す米国人に出会った。


 一体、どんな技術を使えば、あれほどの爆弾を製造出来るのか、私の想像や理解を遥かに超えていた。はっきりと分かるのは、原子爆弾が戦争を終結に導いた事実だった。如何に精強な部隊や艦隊でも、原子爆弾一つに敵わない。


 其の夜、遅くに、佐倉が帰って来た。リュックには食料が満載だった。私も佐倉も髭が伸び放題になっていて、頭髪は垢で汚れ、互いに饐えた匂いを放っていた。


 石鹸を持って来たと、佐倉は云った。私はケロイドの痛みで、手を洗うことは出来なかった。佐倉はひしゃげた薬缶で湯をたっぷり沸かし、石鹸を泡立てて私の顔を洗浄し、手拭いで綺麗に拭いてくれた。いい男じゃないか、と佐倉は云って、自分も顔を洗っていた。何処かでヒロポンが手に入ると佐倉は云ったが、私は止めておけ、と釘を刺した。そうだな、と佐倉は目を伏せ、此の哀しみはどうすれば消えるんだ?、と私に訊いた。


 哀しみを打ち消す方法は存在しない。謂わば、原爆は絶対的な悲劇に違いなかった。その悲劇の引鉄を引いたのが誰かは、もはやどうでも良かった。現に今、ここに存在する絶対的な悲哀、そして無限の孤独は、永遠に焼失しない。皆、失ったものの大きさが甚大で、哀しみを胸中に深く刻み込んで痛ましい日々を送るしかなかった。


 数日すると、私は再び、体調が優れなくなった。


 私の身体は何かに蝕まれていった。軽い眩暈に私は悩まされるようになり、蹲ることが増えてきた。佐倉に訊くと、それは「ピカドン」のせいだ、と云った。原爆のことだな、と私が訊くと、佐倉は、そうだ、と答えた。靴を何処かで手に入れてくれないか、と佐倉に頼み、佐倉は分かった、と答える。靴を手に入れても、今のままでは歩けないのではないか、と佐倉は続けた。暫く考えた末に、ピカドンは後遺症が出る、と佐倉が呟いた。


 自分は死ぬのだろうか。原爆から命拾いした筈だった。佐倉は、それは違う、と云った。場合によっては、後遺症が出る。そういう話を、自分はあちこちで聞かされたと云った。私は、頭を振り、努めて不安を消そうとしていた。俺は、後遺症で亡くなる話をあちこちで聞いたが、必ずしも、全てが同じ運命だとは限らないとも聞いている。佐倉は、そう言って私の言葉を遮ろうとした。


 どうやら私には、静かに死が忍び寄っていることが分かってきた。


 いっそピカドンに一瞬で焼かれてしまったほうが、苦しまなくて済んだ筈だ、と私は佐倉に云った。佐倉は黙って考えていたが、まだ分からん、と呟いた。


 死が近いこと、自分の身に死が訪れること。私は想像だにしていなかった。原爆で死んでいれば、こんな杞憂とは無縁だった筈である。佐倉の言葉を借りれば、不確定だが、後遺症の可能性は否めない。私は息を呑んで佐倉を見詰めていた。


 私の心臓は早鐘を打ち鳴らし、足と背筋には震えが走っていた。今度は放射能に、ゆっくりと嬲り殺しにされる。私は恐懼した。


 軽傷で生き残った人間が、突然死ぬことがある。それがピカドンの怖ろしいところだと、佐倉は聞きつけていた。私の世話を焼くのは、恐らく、私がピカドンの後遺症で苦しむことを、佐倉が知っていたからかも知れない。佐倉が此処に留まった理由は、恐らく私だろう。そう考えると、私は心苦しくなり、涙が溢れそうになった。


 俺は外地で戦友を沢山喪った、と佐倉は呟いた。遺髪を幾つか持ち帰ろうとしたが、道中で荷物を盗られてしまった、と云った。俺は何もしてやれなかった。佐倉はそう云って、私の顔を凝視するのだった。


 俺は人を放っておけない性格なんだ、と佐倉が云い、世話になった友人はみんな死んでしまって俺は孤独だ、と続けた。内地に戻れば懐かしい顔に会える。そう思って帰国の途に着いたが、此処には瓦礫しか無い。友人もいない。勿論、家族もだ。佐倉は哀しそうな目をして、そう呟いた。


 其の夜、私は不可解な夢を見ていた。


 黒い沼が私を底へとを引きずり込もうとしている。私は藻掻いていたが、茨の蔓が私を締め上げて、私の身体を傷付ける。傷だらけの私は血を吹き出し、沼でのたうち回っていた。誰か助けてくれ、と私は思わず叫んだが、辺りは闇一色だった。爪先だって、沼から顔を出そうと足掻いた。その刹那、誰かの白い手が見える。妻の手のようだと私は思ったが、はっきりとは分からなかった。思わず手を私は掴んだが、沼が私を引きずり込むほうが早かった。


 私は目覚めが悪く、佐倉は私より先に起きて湯を使っていた。私は悪夢の中身を佐倉に語って聞かせたが、俺も戦場で、そんな夢をよく見た、と呟いた。


 死ぬなよ、と佐倉は私に云い残して、再び買い出しに出かける。


 死について、私は考えに耽っていた。健常な死に方ではなく、自分が誰かに嬲り殺されるとしたら、人は正気で居られるだろうか。私には不可能に思われた。非業の死を遂げたのは、出征して戦死していった人々も同じだった。佐倉は、大勢そうした仲間を見てきた、と語った。自分の意思を超える何者かが、自分を死の世界に問答無用で浚っていく。これほど理不尽な死に方は、他にあるまい。


 死んでいった人々、これから死にゆく人々。平時、私は大勢の死に囲まれて暮らしていた筈だった。死は日常であり、平常であり、何ら特別な意味は無かった。だが、1945年8月9日を持って、全てが変貌してしまった。佐倉は、死ぬな、と云ったが、死は、私にとって、最も近しい感覚となった。


 原爆の使用は、間違いなく、未曽有の大量殺戮だと私は考える。その力は、有史以来、人間が経験したことが無く、地平の遥か彼方からやって来たものだった。原爆投下による殺傷は、禍々しく、極めて非情で、どこか狂っていた。人間が狂気の沙汰に至ることを、立証したようなものだった。続けざまに原爆が投下されれば、民族は滅んだに違いない。


 私は長崎への原爆投下について、疑問に思うところがある。アメリカは、広島への原爆投下によって、十分に、その心理的な威嚇を、日本に加えた筈だった。アメリカは広島への投下によって、原爆の力を知ることが出来た筈である。


 では、なぜ、2発目の投下に踏み切ったのか。


 屈服しない大本営に対し、更に恐怖を与える為だった。核を立て続けに落とさねば、日本人はアメリカの意図を理解しない。民族浄化さえ、アメリカは決意せざるを得ないことを、日本に告げていた。非道な兵器の過剰な使用が続けば、国際世論の動向も無視出来なくなる。それでも敢えて、2度目の原爆投下に踏み切っている。


 ある意味、アメリカ自身が恐怖していた。大本営は、竹槍で市民に徹底抗戦を強要していた。例えば硫黄島や沖縄戦を見る限り、日本人の一億総玉砕を真から恐れたのではなかったか。本土への上陸作戦を前提とせずに、空爆で相手を追いめたのも、日本人の玉砕を恐れたからである。広島に原爆が落ちても、大日本帝国は屈服はしなかった。つまり、日本人の戦意を挫く為ではなかったか。


 長崎への原爆の投下は、大日本帝国が降伏しなければ、民族を浄化してしまう肚だという、アメリカ側の警告だったのではなかろうか。


 ジェノサイド。日本語に直せば、虐殺の意味である。


 私の脳裏に浮かんだ言葉だった。原爆にはジェノサイドの一面もあった。数万人を、否、数十万人を、一瞬にして融解させてしまう殺傷力を、ひとつの原爆は持っている。人類が手にした兵器の中で、最も恐ろしい兵器が原爆だと、私は断言する。政治や主義ではなく、恐怖が支配する時代の幕開けだった。


 アメリカには、新型兵器の殺傷力を研究していた節もある。7万人も殺戮可能な兵器を、平然と開発して作り出し、その熱線や爆風が、如何に殺傷力を持つかを計算していた筈であった。特に、広域を破壊する目的であれば、当然、爆風の研究を中心に行っただろう。多分、アメリカは、放射能による人体への被害に関しては、殆ど無頓着で、研究の関心から除外されていたように思われる。 


 恐らく為政者には、原爆投下に際し、愉悦感が伴っていたのだろう。人を殺すことに躊躇いはなかったのだ。それが私が思い付くジェノサイドだった。為政者は、何ら苦悩せず、原爆の投下を指示したに違いない。其処には異常な心理さえ私は感じる。原爆投下は人間への冒涜に違いない。


 だが、いったい何故、それが長崎でなければならなかったのか。私は考えを巡らしたが、もはや精神も肉体も力尽きてしまった。


 私は焚火の傍に寄って蹲った。眩暈がひどく、今日は一日吐き気が伴っていた。食事は摂らず、白湯を飲み、佐倉が置いていった薬を飲んだが、まるで効き目は無かった。悪夢を思い出し、私は我慢しきれず吐いてしまった。自分の吐瀉物の匂いで益々吐き気を催して、私は辺りをのたうち回った。急に寒気が襲ってきて、私は、更に火を熾した。


 一日、止め処もなく思考に耽っていたため、私は精神の安定を欠いてしまった。私は狼狽し、一刻も早く佐倉が戻って来るのを待っていた。目は充血して腫れぼったく、手がぶるぶると震えていた。例のごとく吐き気が込み上げてきて、蹲って吐き気と戦っていた。佐倉が戻るまでの時間は、私には異常に長く感じられた。


 佐倉が戻って来た頃には、私は蒼白で涎を垂らして呻いていた。蝦のように丸まって、四肢を痙攣させていた。込み上げる吐き気に勝てず、私は胃液すら、絞り出していた。


 佐倉は私に走り寄って介抱しようと試みたが、却って私は嘔吐が激しくなり、佐倉も手が出せず仕舞いになっていた。佐倉は、吐瀉物が気管に入らないよう、私の顎を大きく開けた。私は胃の内容物を全て吐き出していた。私の顔は、嘔吐の繰り返しで真っ赤に充血し、飛蚊症のように、目の中には小さい文様が泳いでいた。


 神経が弱っているのだから、あまり根を詰めて考えないほうがいい。佐倉はそう言って、私に温かい忠告をした。私は気持ちが高ぶって、かなりの興奮状態にあった。私の体中が悲鳴を上げていた。私はこのまま死ぬのだろうか。くっきりと、死の一文字が私の脳裏に浮かんでいた。やはり、自分は死ぬんだな、と私は内心で呟いていた。


 もう、あれこれ考えるのは止めて、大人しく休養したほうがいい、と佐倉が云った。考えても、はっきりとした答えの出る問題ではない。俺は現実的に対処するしか方法が無いと思っている。佐倉がそう言って、私を労わったのだった。今日は気分が昂ってるから、気持ちを落ち着かせる必要がある、と佐倉は続けた。


 確かに一日、私は考え抜いていた。精神を限界まで追い詰めて心身の変調を来たした。死や原爆について、徹底的に問い詰めようとしていた。何も、まともな答えにならなかった。私が考え抜いたのは、なぜ私や家族が死なねばならないのか、その一点に尽きていた。理由らしい理由は、本当は何も見当たらなかったのだ。私は一日、啜り泣いていた。


 頭皮の激しい痛みに、私は髪を掻き毟っていたが、毛髪がごっそり抜けて指に絡みついてきた。私は自分に被爆の症状が出ているのを悟った。昂った私は、こんなことなら自分を殺してくれ、と佐倉に叫び、目に涙をいっぱい浮かべて、楽にしてくれ、と哀願していた。何故、こんな悲劇が起きたのだ、と私は泣き喚き、佐倉にしがみついて体を揺すった。佐倉はじっと私を見つめていたが、物も言わずにアンプルを切って、手に持った注射器を上に向けた。針先から飛沫が放物線を描き、注射器から空気を抜いているのが見えた。


 ヒロポンだな、と佐倉に訊くと、違う、と佐倉は答えた。粗悪なやつは震えがくるが、これは大丈夫だ、と佐倉は云って、私の腕に針を刺した。


 これはブドウ糖だ、と佐倉が答えた。


 ゆっくり、注射器から何かの液体が私の中に入ってくる。佐倉の言葉が信じられなかったが、私には抵抗する力が既に無く、佐倉の為すがままになっていた。食事を受け付けない私には、ブドウ糖の注射が必要だと佐倉は云った。


 私は佐倉のゲートルに手を掛けていたが、次第に意識が薄れてくる。


 翌朝、やっとのことで私が目を覚ますと、佐倉は朝の食事に取り掛かっていた。飯盒で飯を炊き、手鍋で牛肉を煮ていた。佐倉は、食べるか、と訊き、私は少し欲しい、と云った。飯盒の米は水が多めに炊いてあって、粥のようになっていた。米ばかりだと、脚気になるからな、と佐倉は云って、牛肉を柔らかく煮たスウプを私の前に差し出す。俘虜収容所や野戦病院より此処はひどい、と佐倉は云い、牛肉のスウプを啜った。


 牛肉を何処で手に入れたのだ、と私が訊くと、鮮度のいい肉は高く売れる、と佐倉が答えた。俺は行商をやっていた関係で、色々と顔が利く、と佐倉は言い、スウプをもう一口啜っていた。 昨日俺に打ったのはヒロポンなのか、と私は佐倉に訊いた。初めて打つと、大抵眠ってしまうが、と佐倉は云ったが、悪いことをしたな、と私に謝罪した。興奮して取り乱していたから仕方がない、と私は云って、再び沈黙してしまった。暫く二人で食事をしていたが、佐倉の顔に険しい表情が見てとれた。


 昨日、死にたいと言っていたが、と佐倉は切り出した。俺は外地で、生きたくても生きられない連中を大勢見てきた。佐倉はそう呟く。


 「生きられる間は、精一杯生きろ」


 佐倉はそう云ったきり、手に顔を埋めて長いこと沈黙していた。


 「骨を拾ってくれるか?」


 私は徐ろに、そう呟く。


 今日も再び、空は薄黒い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうであった。廃物で矩形に囲ったバラックに、人々の大半は住んでいた。朝餉を終えた野外生活者の群れが、配給を求めて動き出す時刻であった。皆、ぼろ布を纏い、足を引き摺るように歩いていく。


 暫しの沈黙の後に、分かった、と佐倉は約束した。


 とりあえず、食べて栄養をつけるんだ、と佐倉は云い、私はゆっくりと木匙で粥を口に含み、スウプを一口啜った。自分は運がいいのか悪いのか、私には分からなかった。食事をしながら、過去を思い出して、私は激しく泣いた。風邪を引いた私に、母がよく粥を拵えてくれた。その母も、もう居ない。


 全てを失ったのは、皆、同じだ。佐倉はそう呟いて食事を終え、今日は何処にも行かない、と私に云った。いたく私は心を傷付けられていた。佐倉も、私と同じ気持ちだったろう。にも拘わらず、佐倉が義憤を表に出さないのが不思議だった。黙って食事の後片付けをする、佐倉の煤けた背中を、私は無言で見つめていた。妙な寒気を感じて身震いが止まらず、歯の噛み合わせが悪くなり、体中の骨が軋んでいた。


 振り返って、今日も降りそうだな、と佐倉は云い、外套を上に羽織って前を合わせた。佐倉が調達した毛布に首まで包まり、私は暖を取ろうとした。そろそろ季節変わりが、はっきりと感じられる陽気になっていた。屋根の無い生活は、これ以上長くは続けられない。上物の無い土地を、佐倉も私も持っている。どちらか一方を処分して、その代金で屋根付きの住処を手に入れよう。私と佐倉は、そう話し合っていた。


 ほんの少しずつだが、人々の生活再建の兆しが見て取れる、と佐倉は云い、俺も色々計画がある、と続けた。何分、大勢人が死んでしまったので、遅々としているが、みんな懸命に生きようとしている、と佐倉は微笑んだ。


 佐倉の話によると、私の勤務先だった女学校は、既に廃校になっていた。生徒の大半が亡くなったためだった。教え子たちの顔が、一人ずつ脳裏に浮かんでは、静かに消えていった。私には、もう失くすものは何もなかった。愛する家族や敬愛する友人、大切な教え子たちは、もう此の世に存在していない。私は一切を失った。


 激しい怒りが、私の全身を引っ掴んだ。私は天を呪い、射るような目つきで、昇る太陽を睨みつけていた。何も彼も、滅んでしまえ。私は心の中で叫んだ。


 俺もお前も同じだ、と佐倉は呟き、俺は怒りを自制している、と続けた。この惨状を見て、怒りが湧かない方がどうかしている、と佐倉は云い、焼け野原を一瞥した。


 辺りは破壊されて飛散したコンクリートや木材、そしてガラス片などが、無造作にばら撒かれていた。所々で、電柱が辛うじて立ってはいたが、送電の役目は果たして居なかった。バラックが散財する一帯には土埃が風に舞い、立ち上がる炊煙と焚火が其処かしこに見える。薄汚れた身なりの人々が、食べ物を求めて当て途もなく彷徨い歩いていた。


 破壊された街には残骸しかなかった。


 佐倉の胸中に去来する感情を推し量るのは容易だと、当時の私は傲慢になっていた。病んでからというもの、私は我儘になり下がって、佐倉の言わんとする言葉の深さを理解していなかった。


 佐倉は、遠い目をしていた。私が病院で呻いている間に、人々のむくろは弔われたと佐倉が教えてくれた。累々と道端に遺体が横たわっていたと、佐倉は云った。亡くなった人を弔う人たちは、献身的で、真剣だったと佐倉は続けた。


 後になって気付かされたが、その時の私は、佐倉の献身的な行いを、考える余裕が無かったのかも知れない。


 殆どの日本人が、善良で罪のない人々だった。他者を慈しむこころを持っていて、他人の死に無関心ではいられず、夥しい遺体を、真剣に弔った。死ななければならない理由は何処にも無かった。確かに戦時下で起きたことである。なかなか降伏しない軍部に鉄槌を下すのであれば、米国は、ほぼ、その目的は達成していた筈だった。


 私には、なぜ、これほど過酷な運命が此の街を見舞ったのか、全く理解できなかった。原爆が、究極的に、大日本帝国を降伏させる手段であったのは分かる。だが、広島と長崎が標的にされた理由が分からなかった。呉と佐世保の軍港を破壊するのが目的ではないか、と佐倉は云った。後に知ったことだが、当時、大日本帝国は既に主要な艦船は失っていた。


 何か、佐倉の言葉に、私は釈然としなかった。


 佐倉の説明だけでは、無辜の人間を、これ程までに痛めつける理由にはならなかった。恐らく米軍は、心理戦の一環として原爆を使ったのではないか、と私は考えついた。竹槍で、本土防衛を民衆に強要していた愚か者が、誰であるかは不明だが、米国は、徹底抗戦を構える大日本帝国を精神的に去勢する目的を持っていたのかも知れない。だが、やはり、原爆の残虐性は異常だった。殺傷兵器として使用するには、常軌を逸した感覚が関わっていたに相違ない。敵性語だが、「クレイジー」だとしか言いようが無かった。


 連合軍への無条件降伏は、広島に原爆が落ちた時点で、決断すべきではなかったか。私の胸中では疑念と焦燥が渦巻いていた。


 其の日は一日、佐倉と語り合っていたが、夕餉の準備をすると云って、米軍から調達した缶詰を、佐倉は缶切りで器用に開けていった。 


 オリーブ色の鮭缶は、焚火の中に放り込まれた。鮭缶は火に炙られて、弾ける音を立てて膨らんだ。頃合いを見計らって、佐倉は火から取り出す。アーミーの文字が焼けて消えていた。茹でたじゃが芋と鮭缶で、私は、本当に久しぶりに食が進んだ。


 佐倉が奔走するお陰で、日々の食事に困ることは無くなっていた。佐倉は、米軍が横流しした物資や食料を、巧みに入手して持って帰ってきた。私は複雑な気持ちだった。何故なら、アメリカ合衆国を憎んでいたからだ。佐倉が止むを得ず米国の製品を持って帰って来たのは理解が出来る。ただ、私はひどく、憂鬱な気分になっていった。


 食後に佐倉は何かを頻りと噛んでいた。何時まで経っても吐き出さないし、飲み込みもしないので、それは何だ、と私が訊くと、米兵から貰ったガムだと云った。私は佐倉が、ついこの間まで敵だった人間と、そこまで慣れ親しむ理由が分からなかった。


 私の複雑な心境を読み取ったのか、佐倉は丁寧に、自分の考えを説明し始めた。


 奴等も、一般の兵士は俺達となんら変わりはない、と佐倉は呟いた。上層部がどんな考えかは知らないが、下級兵士は陽気で人懐っこい、普通の人間だ、と佐倉は続けた。憎悪に凝り固まっている私には、米兵と交流することは不可能だと思った。最大の悪人は、国家だ、と佐倉は云った。


 私は英語は話せない。米兵と関わる気もなかったが、佐倉は、お構いなしに話を続けた。俺達だって、狂気に塗れている。神風特攻や菊水特攻を考えてみろ。連中は畏怖した筈だ。戦争が終わり、傷痍軍人の連中も、米兵に物をねだっている。もはやこうなれば、軍人も民間人も区別は無い。みんな生きるのに必死だが、国はもはや当てにならない。敗戦国には何もする力が無い。俺もアメリカを憎んでいるが、それは国家の指導部であり。末端の兵士ではない。佐倉はそう言って、夕餉の後片付けを始めた。


 佐倉の話を、私は黙って聞いていた。私の考えでは、罪あるべき人間は、裁かれるべきだった。原爆投下を指示した人間は当然として、開戦を決断した大日本帝国の首脳部も、罪を償うべきだと考えていた。


 その通りにはならないだろう、と佐倉は呟いた。東条は巣鴨プリズンに収監されたと聞いたが、戦勝国が主導する裁判で、死刑になるだろう、と佐倉は呟いた。


 天皇は、どうなるのだ、と私は佐倉に聞き訊ねた。


 佐倉は、しばらく黙って考え込んでいたが、恐らく米国によって、占領統治の道具にされるだろう、と答えた。


 俺は、天皇の名の下に、大勢の人間が駆り出され、死んでいった経緯を知っている。敵国が悪いと云ってしまえば簡単だが、天皇にも戦争責任はある筈だ。佐倉は言葉を繋いだ。だが、天皇を指弾して刑に架ければ、この国はもっと混乱すると思う。米国の占領政策は巧妙だ。戦中も戦後も、道具であることには変わりがない。そう佐倉は云って目を瞑る。


 権力の傀儡とはいえ、戦争は天皇と無縁で遂行された訳ではない。だが、俺が大陸で見たのは、天皇の為に死んだ者は少数だったということだ。皆、家族や同胞の為に死んでいった。佐倉はそれだけ言うと、あとは黙りこくっていた。


 私は佐倉の言葉を反芻しながら、其の夜、ずっと考え込んでいた。ケロイドと被爆の後遺症に苦しみながら、焼けるような激しい痛みを胃に感じていた。


  被爆者が集まる病院で見た、老人の赤く濁った怒りの目。子供たちの放心したような顔。痛みが去るか、命を終えるまで、どの顔も物を言わず、ただ虚空を見つめていた。隙間なく並べられた丸太のような人々は、誰も文句を言わず、罵り合いすらせず、従順な羊のように押し黙っていた。時として啜り泣きの声がする。皆、黙って、泣き声を聞いていた。


 私は、決して忘れ得ぬ光景を記憶から呼び覚ましていた。


 あの日、遥か彼方から爆撃機が飛来したかと思うと、閃光が視界を遮り、轟音とともに熱風が吹き抜けて、地響きで建物は揺れた。爆風は、原爆の落下点を中心に同心円を描き、全ての者を薙ぎ払う勢いで駆け抜けて行く。そして天空に巨大な煙の球がゆっくりと立ち上り、煙の柱は放射状に拡がる環を作っていた。それは恰も、地を穿つ巨大な雷光のように、電撃的に煌めいた。跡形もなく消え去ってしまった人々、焼け爛れた人々の残骸、皮膚が爛れ落ちて死にかけている人々、手を前に突き出して歩く被爆者の群れ、老人や妊婦、手を繋いだ子供、彼等の一切が光の中に居たのだった。


 阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 私は、地を這う蜘蛛のように、焼けた舗装路に貼り付いて逃げた。屍を搔き分けて私は逃げ惑った。踏みつけたのは子供の腹だった。お水を下さい、と焼け爛れた女が云った。真っ赤に腫れ上がった顔の女は、体中から、白煙に似た蒸気を発していた。やがて膝から崩れ落ちると、そのまま死んだ。


 私は、記憶を辿れば辿るほど、眩暈に似た感覚に陥っていく。それは過剰な殺戮だった。極めて強い繁殖力を持った植物のように、私の心の中に、闇が蔓を伸ばして巣食っていく。それは非情で、醜悪で、そして類を見ない悪辣な闇であった。


 原爆を用いた殺戮者は、戦争の勝利者となって称えられるのであろうか。歴史は皮肉だった。大日本帝国は乾坤一擲の戦いに臨み、無残に敗北した。敗者は悪とされ、迫害され、虐げられる運命にある。無辜の民を焼き尽くした米国は、原爆投下を正当化するだろう。私の怒りの矛先は、はっきりと、無能かつ無責任な大本営と、原爆を投下した米国首脳に向けられていた。


 記憶に焼き付いて離れない惨状を、私は死ぬまで反芻するだろう。思い起こして如何に苦しもうと、敢えて私は指弾し続け、呪い、そして復讐を夢見るだろう。


 私は幾許かの時間、微睡んだらしい。目が覚めると佐倉は外出した後だった。大きく不格好な握り飯が3つ、焚火の傍に置いてあった。佐倉が握ったのだろう。其の日、私は歯が抜け落ちた。歯茎から出血がし、ぐらつく歯をそっと触ってみると、口の中で、零れるようにして前歯が一本抜けた。私は黙って、抜け落ちた前歯を見詰めていた。青黒く変色した、脆い歯に変わっていた。


 ひどく疲労し易くなっていた私は、日中の大半を横になって過ごした。下痢と下血を繰り返すようになり、喀血すら始まっていた。被爆の影響は、はっきりとしてきた。


 佐倉は、日々、忙しく動き回っていた。時折、酒を買って来ては、私に一口呷れと酒瓶を寄越した。もう、私が長く生き永らえないことは明白だった。もうすぐ、黄泉に旅立ち、離れ離れだった妻や子に逢える。私は自分の死を待ち焦がれていた。


 或る日、佐倉が一人の若い女性を連れて来た。自分は看護師だと自己紹介した女性は、名を紀子と名乗った。女子挺身隊に居たことがあると云って、佐倉とひととき談笑していたが、私の脈を取り、口腔内を診て、紀子は複雑な面持ちになった。私は、分かっている、と答え、知ってるのなら、はっきりさせてくれ、と云った。


 紀子は佐倉の目を見て、一つ深呼吸をした。何か深く、考えているようだった。紀子は無言で自分に頷き、意を決したように、話し始めた。


 原爆の影響だと思います、と紀子は云った。詳しいことは、まだ分かっていませんが、同様の症状を、私は沢山見てきました。目に見えない、放射能と呼ばれるものが原因で、こうした症状が出てきます。紀子は、ゆっくりと、私を諭すように重い口を開いた。


 私には残された時間が余り無い、と紀子に云い、放っておいてくれと喚いた。佐倉が私を宥め、紀子に、済まない、と謝っていた。


 私は肩で呼吸するほど興奮していた。惨めに死んでいく自分の醜態を見られたくなかった。私は激高して、自分の感情に翻弄され始めた。もう私は死ぬんだ。今更、何が出来るというのか。世界に存在する全ての人間に対し、私は忍耐の限界が来ていた。


 紀子は私を見つめ、何か言いたそうな表情をしていた。私は再び、分かっている、大勢死ぬところを見て来たんだろう、と怒鳴った。俺は惨たらしく死んでいくんだ。俺は屍を踏んづけて此処まで逃げて来た。だから、何もかも分かってる。俺は野垂れ死にするんだ。憐れみは受けない。帰ってくれ。私は嗚咽とともに叫んでいた。涙が滂沱と流れ、唇は震えていた。


 「手助けが必要なら、遠慮なく自分に委ねて欲しい」


紀子さんが、そう云ってくれたんだ。佐倉が云った。私は内心、怒鳴ったことを恥じていた。そして、もう、誰の手も煩わせることなく、死にたいと願った。私は僅かな身の周りを持って、よろよろと、闇の廃墟に出て行こうとした。其の刹那、私の足は縺れ、焚火の傍で倒れ込んでしまった。佐倉が駆け寄って、私を抱き止めてくれた。此処に居ろ、と佐倉は私を叱った。


 焚火を囲みながら、3人で語り合っていた。


 怒鳴って済まなかった。つい気持ちが昂ってしまったんだ。私はそう言って、紀子に謝罪した。紀子は微笑んで、大丈夫です、と答えた。紀子は何かを伝えたがっていた。私は大きな関心を抱いて、紀子の真っ直ぐな一言一句に耳を傾けていた。


 私は原爆で苦しむ方の看護がしたいんです。紀子は私の目を真っすぐに見つめて、そう云った。そして其の強い動機を語った。


「私の父母は爆心地に住んでいたんです」


 紀子の父母は、原爆に殺されていた。


 紀子は涙ぐんでいた。私は、父母の死に際には京都にいました。父母の形見を手にすることさえ叶いませんでした、と云って、紀子は嗚咽を漏らした。私は紀子の話に、深く聞き入っていた。私は累々と横たわった遺体を思い出していた。だが、恐らく家屋も、そして父母も、瞬時に此の世から消え去ってしまったに違いない。紀子は原爆投下の報を聞いて、咄嗟に信じられなかった、と語った。


 辛いのは、俺たちだけじゃないんだ。佐倉はそう云って、私の目を見詰めなおした。佐倉は北海道に帰らず、病身の私の傍らに居ることを選択した。私は自分を恥じ、佐倉に、こころから感謝の気持ちを抱いた。


 夜はめっきり冷え込む季節が到来していた。焚火だけでは暖が不足していた。立ち並んでいたバラックが、ちらほらと、屋根付きの家屋に変わり始めていた。佐倉は土地を処分して金を作り、私の地所に家を建てる算段をつけていた。すぐさま木材や資材が運び込まれ、職人達が手際よく動いて、2週間も経たずに一軒家が立ち上がった。私の体力は消耗する一方だったが、新居に移り住み、私は生き返る心地がしていた。


 街は力強く復興していくだろう。そうした予感で私は一杯になっていた。人間の逞しさ、愛や信頼の強さに、私は気付かされた。哀しみを乗り越えて、人が人と絆を結ぶ日が遠くない気がしていた。


 家が建った日の夕方、紀子が訪ねて来た。蝋燭を持って来たという。


 縁側に出た紀子は、マッチを擦って、一本ずつ蝋燭を点して、皿に立てていった。


 私と佐倉は、紀子が深く目を瞑り、一心に蝋燭に手を合わせる姿を眺めていた。私と佐倉も紀子に倣い、目を閉じて、手を合わせた。深い悲しみが私を薙ぎ倒し、そして涙が止めどもなく溢れた。私は祈りながら、妻と子供の顔を思い浮かべた。直に会いに行く。私は心の中でそう呟いていた。そして生き残った全ての人達を、ずっと見守ってあげて欲しいと父母に祈った。私には、佐倉や紀子との素晴らしい出会いがあった。父母は、あの世から私を見守ってくれている。そう、確信した。佐倉も紀子も、泣いていた。紀子の目に、平和への強い決意が滲んでいた。


 もう長くはない。私はこの国の行く末を憂い、日々、思索に耽っていた。私を蝕む病魔は、刻一刻と、私の命を削り取っていく。平和を希求する祈りは、私の中に萌した小さな変化かも知れない。身は朽ち果てようとも、私は新しい未来を信じていた。

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