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​複雑な国際情勢をコンパクトにまとめることが出来ないか考えて、私はこのブログを書き始めました。今、世界で何が起きているか、一早く読者の皆さんと情報をシェアしていきたい。その思いから、記事を書くことにしたのです。

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執筆者の写真Masaki Ogawa

天安門事件の真相について改めて考えてみる|私は6月4日を忘れない

更新日:2019年11月30日

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1989年に起きた天安門事件の真相は藪の中でした。当局が徹底的に隠蔽しているために、現在でも事実関係が明瞭とは言い難い側面があります。周知かと思われますが、国際世論の中で、”事実”として語られているのは次の2点です。学生たちの民主化要求は平和的に行われたこと、もう1点は当局が軍を用いて学生を”弾圧”したことなどです。私は1989年当時は大学生で、中国人留学生と生活を共にしていました。天安門事件が起きた際、ニュース映像に強い衝撃を受けたのを昨日のことのように覚えています。事実関係を隠蔽すればするほど、却って当局の動揺が仄見えてきますが、何故当局が事件を隠蔽するのか、冷静に掘り下げてみる価値がありそうです。当時TVでは、装甲車の車列が座り込みをしている学生に突っ込んでいく映像が流されていました。NHKは事件から何年も経ってから、”天安門事件での弾圧は無かった”と訂正報道を加えました。情報が錯綜する原因を作っているメディアにも、大きな責任を問いたいところですが、30年近く経過した今現在に於いて、正確な歴史的検証が行えないのは奇怪至極のことです。結論から言えば、資料から見る限り、天安門においては、軍による大規模な”虐殺”は存在しなかったのではないかと私は考えています。100万の市民が示威行動に出て、戒厳令が3週間も敷かれてもいましたから、確かに死傷者は存在しています。然しながら”数万人の死者”というのは、明らかに資料を精査していない不正確な情報だと考えられます。米国務省の文書から見る限り、”発砲”があったのは天安門へと至る北京市西側の道中だった可能性が高いと見られます。天安門の現場に最後まで留まった侯徳健の証言も、虐殺が無かった事実を裏付けています。”私は6月4日を忘れない”と本稿のタイトルに入れたのは、2人の勇気ある人間の行動を讚えるためです。つまりシンガーソングライター侯徳健氏と、北京師範大学講師で獄中でノーベル賞を受賞した劉暁波氏の2人です。2人は、最後まで天安門に留まって、事態の収拾を試みたのです。今回の記事では、侯徳健氏の証言を軸に”虐殺説”の根拠が希薄であることをまとめてみたいと思います。加えて、天安門事件以降の、現在の中国の有り様も検討してみたいと思います。


侯徳健の証言から見る天安門事件


侯徳健は以下のように証言しています。実は民主化運動のリーダーだった強硬派の紫玲やウーアルカイシは、真っ先に天安門から逃げ出し、欧米へ亡命したのです。彼らが西側メディアの取材で語る内容に、私は何の信憑性も感じません。紫玲こそが”虐殺説”を流布した張本人ですが、紫玲は”民衆の流血無しに革命は成就しない”とまで言い放った人間でした。紫玲やウーアルカイシが現場に最後まで留まっていたのなら、”惨事”の目撃者としての信用も得られたでしょう。ですが民衆を革命の道具と見做し、流血も辞さないとまで言っておきながら現場から逃げ出しているのです。


最後まで現場に留まり、人民解放軍に発砲しないよう折衝していたのは、実はシンガーソングライターの侯徳健であり、後に獄中に繋がれた劉暁波も、学生たちを慰撫し、集めた武器を軍に供出するよう現場で説得していました。


興奮した民衆は軍用トラックを横転させてバリケードを作り、ライフルや機関銃を奪って兵士を撲殺していますが、それでも軍は上層部の指示に従って発砲はしませんでした。紫玲が趙紫陽からハンストの継続を期待されていたと語るのも、実は虚偽だと思われます。侯徳健の証言録から分かるのは、当時運動の上層部は穏健派と強硬派に二分されていました。強硬派にはレアリストは存在せず、流血と暴力が民衆を覚醒させるといった暴論が罷り通っていました。紫玲やウーアルカイシを始めとする強硬派は”扇動家”であって”革命家”ではなかったのです。


暴徒と化した群衆に対し、中国共産党上層部は対応を巡って意見が二分されていました。5人の政治局常務委員会で趙紫陽と李鵬は対立し、最終的に鄧小平は戒厳令、即ち軍の出動を命じたのです。穏健派の趙紫陽は全責任を追って失脚し、事態は急展開の様相を呈して来ます。これはおそらく、紫玲やウーアルカイシには寝耳に水であったに違いありません。老練な鄧小平は強硬策をカードにして、学生側の性急な改革要求を断固握り潰す肚を固めたのでした。政府内の混乱を収拾した鄧小平は、民衆の”暴動”を鎮圧するため、北京市に軍を展開します。


事態が緊迫する中、シンガーソングライターの侯徳健、北京師範大学の劉暁波は現場で学生の説得にあたっていました。完全武装した兵が展開して治安出動と称し天安門を包囲、学生や市民に恐怖感が兆し始めます。事実、ウーアルカイシは心臓発作を起こしたくらいでした。ウーアルカイシのために、救急車を呼んだのも侯徳健でした。


兵士を殺し、武器弾薬を奪い、放火するなど、暴徒と化した群衆に発砲可の命令が下ったのは、6月4日のことです。戒厳令実施の総責任者である、李鵬の命令でした。おそらく、この暴徒鎮圧の件が”虐殺説”の根拠の1つにあるのだと思われます。WikiLeaksによると、天安門での発砲の事実はないと米外交機密電に記載されており、北京市の郊外から天安門に向かう争乱を引き起こしたデモ隊と鎮圧部隊との衝突だったことが分かります。部隊によっては、暴徒化した群衆に襲撃されて、死傷者を出しつつも、一発の銃弾も使っていないケースすらありました。群衆は銃や火炎瓶、コンクリートブロックを使って軍に応戦しましたが、これはある種の”市街戦”であり、暴徒と鎮圧部隊の軍事衝突の意味合いを持っています。


天安門自体には銃声など無く、最終的には人民解放軍の説得に応じて市民も学生も広場を退去しているのです。


同じくWikiLeaksによると、1990年の米外交公電に、北京市西側で死傷者が出たと報じられています。これ自体は軍による無差別発砲でした。ただし部隊の兵士が100名ほど群衆に殺害されたと勘違いした兵士たちが、怒りに我を忘れて群衆に発砲したケースです。100名の兵士は後に部隊に帰還していますので、これは悲劇としか言いようがありません。これも”天安門での虐殺説”の根拠となっていると思われます。いずれにせよ、天安門外とはいえ、無辜の民衆に発砲した事実は存在しています。この悲劇の責任は鄧小平と、扇動家の紫玲やウーアルカイシにあると私は考えています。


中共はなぜ”天安門”をタブーとしているのか


中国共産党が”天安門”を語ることをタブーにしている理由は複雑です。先ず、一党独裁体制を維持する為でもあり、過去及び現在の失政を隠蔽して、政府への批判の口火を切らせない為でもあるわけです。辛亥革命以来、民衆による動乱と国家転覆を繰り返してきた中国が、言論に過敏になるのは国家の統制が、”熾烈な民意”によって容易く失われてしまうからです。


世界標準の感覚からすれば、今の中国共産党の行為は立派な言論統制と民意弾圧ですが、中共の為政当事者達にとっては、恐らく”治安”の一部だと考えられている節があります。


ただし新疆やチベット、南シナ海などでの行動を考えれば、中共の情報統制や隠蔽行為は暴挙と嘘以外の何ものでもありません。いずれにせよ体制を維持する上でのアキレス腱が”人民”であることには変わりがないのです。特にグローバル化した世界の中では、天安門事件直後の各国の反応と外交的な制裁を中共は忘れていないし、国際世論の再燃を恐れてもいるはずです。当局が、世界中から流入してくる情報をいつまで食い止められるか見ものですが、”天安門の挫折”は、中国人民にとっては、決定的に民主化への期待を打ち砕かれた歴史的契機だったのではないでしょうか。


最近のことですが、米国大統領トランプは、天安門事件を”暴動”だったと語っています。孫文のような明確な国家変革ヴィジョンのないまま民衆を扇動し、国内を騒擾させて、素知らぬ顔で亡命するリーダーの行為は、私には許しがたい振る舞いに映ります。趙紫陽は穏健で民意を酌み取る政治家との定評がありましたが、元はと言えば中央政界での政治的な綱引きが天安門事件の遠因になっている以上、趙紫陽にも責任があります。胡錦濤の「百花斉放・百家争鳴(言論や思想を自由化すること)」は保革の激しい抗争と国内の騒擾を惹き起こしただけに終わったのです。


官製デモとマスゲームの時代


天安門事件以降の民衆運動は極端にボルテージが下がりました。人民は豊かになりつつあり、イデオロギーに翻弄される時代から生活を潤す時代へと変化したのです。然しながら都市部は別として、取り残された辺境や貧困層が確実に存在するのが実際の中国であり、富貴経済と言われる特権階層の汚職や腐敗に対する人民の不満は充満しつつあります。尖閣問題での抗議デモは、自生的なものではなく、当局が人民のガス抜きに用意した”官製デモ”の色彩が濃厚ですが、敵愾心を外部に投射させて失政を誤魔化すトリックが、いつまでも有効な筈がありません。民衆は実は”愛国心”を失っており、”愛国無罪”のスローガンに代表されるような、真の連帯感の無いマスゲームを演じているだけかも知れません。


皮肉なことに、天安門事件以降の、江沢民の愛国教育は”他国を憎むこと”は教えていても、肝心の”自国を愛すること”を何ら教えていないのです。


江沢民は”歴史問題で日本を責め立てる”ことを徹底させてきましたが、私には小手先だけの陳腐で暗愚な処方箋にしか映っていません。否、むしろ、江沢民は民衆のこころから真の愛国心をスポイルしてしまったのです。これは真の意味での党への信頼を失墜させる愚行ですが、彼は気付いていないでしょう。こうした精神土壌から、暴力的な自我肥大が生まれて来ます。今の中国は末期病的な状態だと断言出来ます。


この記事のまとめ


30年近い歳月が経過してなお、天安門事件の”後遺症”は様々な形で見ることが出来ます。事件に際して失われた命が確実に存在する以上、為政者と煽動者の責任は厳しく問われなければなりません。今回の記事では、歴史を直視して正確に判断することを目指しました。天安門での”虐殺”は無かったかも知れない。しかし国は荒れ、人々は悲しみに落ちた現実は変わりません。天安門事件の生き証人、侯徳健は語っています。「人は権力を持てば必ず傲慢になる」と。個人的な意見ですが、人間を縛り続ける今の中国には、”亡国の兆し”も感じられます。侯徳健の言葉は、現在と未来の中国を鋭く言い表しているのではないでしょうか。

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